このページは(社)日本測量協会「測量情報館」ホームページより転載させていただいております。
 


■ 機関誌『測量』2004年5月号より 特集「美しい国づくりと観光」座談会

この座談会は2004年2月23日に2時間にわたり行われました。機関誌「測量」2004年5月号には紙面の都合上話題の一部を抜粋して掲載しましたが、ここでは話題の全てをお届けします。
川越は、「美しいまちづくりと観光」を他に先駆けて成功に導き、各地の観光再生プロジェクトの模範になっている。魅力ある川越のまちづくりはどのような動機で出発し、どのようにして成功したのか、その秘訣を探る。観光再生における測量業の役割は何か? 苦境から脱出した川越の生き方を通して、今、苦境の中にいる測量業が生き抜き、発展するための道筋は何か?

 
 
◆座談会もくじ 「川越のまちづくりから、測量の進むべき道を探る」
1 川越のまちづくり、その成功の秘訣は?
2 さらなる観光都市「川越」をめざして −観光インフラ整備−
3 期待される測量業と測量業再生のヒント
◆座談会メンバー(敬称略)
舟橋功一  川越市長(川越市観光協会会長)
馬場弘 川越商工会議所 副会頭(川越蔵の会前会長)
近津博文 東京電機大学理工学部建設環境工学科教授(月刊『測量』前編集委員長)
藤井美登利  町雑誌『小江戸ものがたり』編集長(川越むかし工房主宰)
西澤堅 測量設計業(株)写測代表取締役社長(川越市在住)※司会
 
 
川越のまちづくり、その成功の秘訣は?
   
西澤

私は川越に住んでいるのですが、そのことを他の人に話すと、「川越に住んでいるのですって・・・・。いいですね」とよく言われます。私も、「川越ほど良いところはありません」と言っています。私は航空写真測量の会社を経営しているのですが、数年前に川越ロータリークラブに入れていただいたので、これから益々、「住んでよし訪れてよし」の川越の役に立ちたいと考えています。当面の私の川越における役割は、2つほどあります。一つ目は、マンション建設計画の浮上で消滅の危機にあった旧川越織物市場(図−2)の歴史的建造物を市で取得していただいたので、これを拠点にしたまちづくりに協力することです。
二つ目は、江戸文化を伝える川越まつり(図−3)には,私の住んでいる町内の「浦島の山車」(県指定文化財)も出るのですが、老朽化が目立つため皆で資金を出し合って修復することです。行政の力を借りながらわれわれが動くことによって、観光と文化と環境の良い、伝統を守る川越まちづくりを進めていきたいと思います。
川越には多くの魅力スポットがあり、その観光客数が自慢なのですが、まず、舟橋市長さんから川越の観光の自慢話をお願いします。

   
  1.川越の魅力は・・・・
   
舟橋

私は川越の出身ではなく、他所者として川越に移り住んで40年以上になるのですが、川越の良さを客観的に見ることができて良かったと思います。慣れてしまうと町と同化してしまい新鮮味を感じなくなりますので、新しい他所者の気持ちでいる努力を絶えずしなくてはいけないと思っています。 私が生まれ育った栃木県栃木市は川越とそっくりの古い町で、川があり、山車もあります。けれども、川越の方が発展を続けています。私は川越市長ですから、色々な所から講演の依頼をされるのですが、どうしてかなと考えると、ウィークデーでも沢山の観光客が来る理由を知りたいようです。他の観光地と比べて人が集まるのはなぜか。全体の観光客が減っているにもかかわらず、正月でもこんなに多くの人が訪れる所はありません。

川越の魅力は何だろうと考えますと、東京に近いという地の利だけでなく、戦後の時代になって、あらゆるものがワーッと一斉に新しくなっていった時代でも、川越は同じような方向に進まなかったことが魅力の根源になっているのでしょうか。古い建物が戦災にも遭わなかったことや、昭和50年代までは古い建物を壊して新しくするという動きが強かったにもかかわらず、その渦に飲み込まれなかったのが結果的に良かったと思っています。

歴史と伝統が息づいていますので、今度はそれを活用して新しい観光都市にしようということです。古いものを壊す方向に進むことなく、逆に、残す方向へ行ったのが良かった。住民の皆さんがまちづくりに関心を示し、皆で協力しようという気持ちになることが必要ですね。町は古ければ良いというわけではありません。古くても誰も来なければ意味がないわけですから。川越は地理的にも歴史的にもちょうど良かったのではないかと思います。私自身、古い町に興味があって全国各地の町を訪ねているのですが、古いことだけを強調している町は、その古さを維持しているうちに町が壊れてしまうのではないかと思うことがあります。町の実力というか、一本筋の通った魅力が必要ですから、川越のまちづくりは、古い中にも新しい時代が息づく魅力的なものを加えていきたいと思っています。
川越を訪れる観光客数は年間400万人という基礎的な数字があるのですが、今年の正月の三が日だけで38万人になり、昨年より10万人ほど増えています。ほぼ1割の増加です。この時期ですので、観光客が増えなくても減らなければいいというのが他の観光都市ですから、「どうして川越市には人が集まるのかを話してくれ」と講演会の講師を頼まれます。古さと伝統の中に息づく新しさが入ってきていることが魅力なのかなと感じています。川越の古い町並みは一番街の蔵造りと大正浪漫夢通りにありますが、市民と観光客の需要からするとクレアモールのように人がたくさん集まる近代的な要素も必要ではないかと思います。古いものと新しいものがミックスしているのが川越の特徴ではないでしょうか。

単に古いものを保存しているだけで、残っているのはお年寄りばかりで、お土産だけを売っているというような町ではありません。これらをいかに維持して生かしていくかが今後の課題です。古い伝統と歴史の中に、ある意味での近代的な力強さが入ってきており、それを川越の住民の方々の手で支えていただいており、大変にありがたく思っています。住民の方々によって、川越をPRしていただいているのですが、私も市長として街のサンドイッチマンのような活動をしなくてはいけないと思っています。歴史に頼るのはいいのですが、他には何もないというのはいけない。観光客が絶えず目を向けてくれるものを持つ必要があり、今後も努力をしていかなくてはと思っています。

   
西澤 ありがとうございました。川越駅を降りると目の前にクレアモールという近代的な商店街があって、そこを抜けると大正浪漫夢通り、更にしばらく歩くと蔵造りの街に入る。駅から遠ざかるにつれて平成・昭和・大正・明治・江戸へと順々に少しずつタイムスリップし、また、駅に近づくに従って現実の世界へ目覚めていくところが心地よいと観光客が言ってました。また、川越の町そのものが巨大な美術館・博物館みたいだとも・・・・。
   
  2.観光都市「川越」を支える歴史・文化遺産と市民活動
   
西澤 観光都市「川越」をここまで再生するには、住民の方々の力添えとご苦労があったと思いますが、その辺の経緯を馬場さんからまとめてお話いただけますか。
   
馬場 川越が重要伝統的建造物群保存地区(伝建)の指定を受けたのは平成11(1999)年で、遅すぎるというご意見を頂くのですが、それには理由があるのです。伝統的建造物のある全国の多くの地域は、伝建に頼らないと活性化できないとか暮らしていけないというところが殆どです。昭和50(1975)年の文化財保護法の改正で伝建の制度が定められたとき、川越は直ぐ候補にあがったのですが、住民の意向や伝建制度がまだ充実していないということもあり、補助してもらわずに市と住民とで何とかやっていこうということになりました。妙な制度に縛られるのは嫌だというのが多分にあったのです。ですから、伝建の指定を受けようと思えばいつでもできるような状態でした。

川越の都市計画は、江戸時代の寛永15(1638)年の大火の後に、松平さん(川越城主の松平伊豆守信綱)の命により「十ヵ町四門前」をキーワードにして作られたものです。ですから、川越には神社仏閣が多く、子供が遊ぶ所とか、,憩いの場所が沢山あります。かつては、これらの神社仏閣が環境の良い空間を提供していたのだと思います。当時の神社仏閣は冠婚葬祭だけでなく、日常の地域住民の触れあいの場としての機能も持っており、現在とは考え方が違いました。宗教とは一線を画したところで、神社仏閣にこれからも住民に憩いの場を提供してもらうには、伝統的行事という形で住民との関わりを強めていくのがよいと思います。上手くいけば、これらの神社仏閣が外国のビオトープとは異なったタイプの、好ましい都市環境空間になるのではないかという気がします。

川越の蔵造りがどのような経緯を経て今でも残存することになったかを知るのは興味深いと思います。かつての川越の町は、「札の辻」を中心にして形成されていました。鉄道が敷設された時に、町の近くに駅を作ると疫病が流行るとか稲が燃えるとか言って、中心市街地から離れた今の場所に川越駅が作られました。ところが駅ができてから、町の中心がだんだんと駅の方へ移ってしまいます。これまでの一等地が時代とともに変わってしまったのです。通常なら、古いものを壊してそこに新しいものを作るのですが、川越の場合はそれを残したまま次の所へ中心地が移動していきました。このような形で、江戸・明治時代のものが一番街に残され、大正浪漫夢通りには大正時代のものが残されました。そして、昭和から平成のものが駅の前にある(図−4)。ですから、残したというよりは、たまたま残ってしまったというのが実情です。

昭和20年代・30年代(1950〜1960年頃)には蔵を壊してモダンなお店を作った所もありますが、「何も無理して改築しなくても・・・・。多少の蓄えがあるので食べるには困らないから・・・・」ということでじっとしていたり,「跡継ぎが未だ決まっていないから」というような理由でそのまま残ってしまった。その結果が1周遅れのトップランナーと言うか、時代の流れに取り残されたはずが、時代の変化で良い町になってしまったと言えるのではないかと思います。確かに昭和40年代(1960〜1970年頃)にまちづくりを青年会議所で始めた時は、文化財の蔵の調査などをしていても、地元の人は殆どお見えにならなかった。そういった状態が長く続きましたね。

ところが,昭和40年代半ばごろ(1970〜1980年頃)からまちづくりという言葉が出てきて、東京の建築・都市計画の学生たちが、一番近いということで川越の町の勉強に来たりしていました。それから30〜40年経って、その学生達が大学教授になったり、建設コンサルのトップになったりして、あちこちで川越のことを宣伝してくれるのです。まちづくりを長くやっていた効力でしょうか、行政も早くから文化財に指定したり、条例を作ったり、補助金を出してくれたのです。専門家が集まってまちづくりシンポジウムを開くと、若い頃に川越に来て勉強した人達が多いので、自然に川越の話が出てくる。

まちづくりも、継続は力なりです。色んな方の応援があってここまでこられたのは、長くこつこつとやってきたからかなと思っています。行政が法律で縛られて出来ない事があっても、その部分を,行政側の情報収集・提供という支援を得て、いい意味で民間と行政とが連携しながら実行できることが多い。言ってみれば、産官学民連携によるまちづくりの走りのようなものです。

   
西澤 現在NPO法人になっている「川越蔵の会」を作り、蔵造りの保存・修復や、古い蔵の街と新しい街のミックスなどをしてこられたのですが,その辺のご苦労についてはいかがでしょう。
   
馬場 保存してきたというのは半分当たっていて、半分違うと思います。先程お話したように、半分は残ってしまったというのが正しいと思います。確かに行政の力を借りて条例や補助金等で守ってきました。それに加え、、「川越蔵の会」等に所属している蔵の好きな人が楽しみながらやってきたというところがありました。当時は,川越が今のような姿になることなど想像もできませんでした。蔵の好きな人達が、、「何とかしよう。先のことよりも今動こう」という気持ちだけで勝手にやっているうちに、それが時流に乗ってうまくいったというところもあると思います。

これからの社会情勢の変化でどうなっていくのか不安もありますが、川越らしさを失うことの無いように住民と行政が一緒になって守っていこうと思います。一番街にある現・埼玉りそな銀行の建物が建ったのは大正7(1918)年です。蔵造りの街の中に突然建った近代的な建物は、当時は非常に違和感があったはずです。しかし今では殆んど周囲と同化して、川越のシンボル的なものになっています。常に新しいものにチャレンジしながら、それを受け入れていった結果、川越の町の中に、江戸・明治・大正・昭和・平成のものがバランスよく混ざったのが面白いと思います。

   
西澤 どうもありがとうございます。市長さんにお伺いしたいのですが、今は不景気で全国の多くの商店街がシャッター通りになっています。ところが川越には、数多くの観光客に来ていただいているため、シャッター通りをほとんど見かけません。これについては、どのような評価をされていますでしょうか。
   
船橋 世界的にみても市街地の周辺に大型店ができて,中心市街地が衰える傾向があるようです。でも、川越の場合には新しい店が出店しています。これは大したものだと思います。私ども行政が空き店舗の活用に力を入れなくてはいけないのですが、行政でやれることには限界があるため、商売をされている方の力におすがりしています。他の商店街と比べて川越に空き店舗が少ないのは、川越で新しいことをやろうという人は新機軸で始められますから、皆が目を見張るような洗練された新しい店ができ、客を呼べるのだと思います。川越には、そういった新しいものをとり入れる気質と包容力があるので助かっています。沢山のお客さんに来ていただいている今のうちに、新たにゼロベースの視点に立って、次の川越のことを考えないといけないと思っています。行政の力だけでは充分な行動がとれませんから、皆さんのような方々の支援と協力を今後ともお願いしたいと思います。
   
  3.伝統の啓蒙・普及も大きな原動力
   
西澤 藤井さんは東京からこちらへ住まいを移されたと聞いてますが、その辺りのことを、川越のよさを交えて話していただけますか。
   
藤井 11年程前に川越に住まいを移したのですが、その前は東京浅草に住んでいました。バブル期の頃に、10年間ほど外国の航空会社で乗務員をしていたことがあり、東京とロンドンを1週間毎に往復していました。当時は、東京を1週間留守にしている間に町並みが変わってしまうほどでした。ロンドンでは曾祖父さんが見ていた景色を曾孫も見ているというように時間の連続性・共通性があるのに,東京では好きな建物が壊され、全くそれまでとはつながりのないものができている。時間のつながりを断ち切るような景観にいつも違和感をもっていました。

その頃、観光で川越を訪れて、一番街に蔵造りの建物が群で残っているのにびっくりし、そこに流れている江戸からの時間のつながりに魅せられて、川越に引っ越してきました。ですから、私は「景観難民で川越に避難してきた」と言ってます。たまたま引っ越してきたところが高齢化の進む町内で、子ども会の人数が16人で老人会が60人でした。この町内には江戸時代から続く川越まつりの山車があるのですが、浅草の御神輿と違って、山車には子供からお年寄りまで役割があるものですから、子育て中の新しい住民を暖かく迎えていただきました。お祭りが一つの装置になって、私のような新しい住人を迎え入れるという仕組みがあることは、川越の大きな財産だと思います。

川越に移り、町内のご隠居さんから聞いた中に、消え去ってしまいそうな話が沢山あったので、それを今のうちに記録しておきたいと思いまして、ミニコミ誌『小江戸ものがたり』を発行させていただきました。第1号には、日本画の伊藤深水画伯のモデルにもなった馬場さんのお母さまのて手こ古まい舞姿の写真を貸していただきました。川越の町の方々のご協賛を頂き、年に2回の発行で、最近,第5号を出させていただきました。初めにお話のあった旧川越織物市場は,たまたま私の住んでいるマンションの真裏にある古い長屋なのですが、引っ越してきた時から何だろうとずっと思っていました。ある日、博物館に行きましたら、そこに飾ってある模型が我が家の裏の建物と全く同じなのにびっくりしました。同じマンションに住む友人も単なる古い長屋としか思っていなかったので、自分達の住んでいる所にはかつて織物市場のような華やかなものがあった、ということを新しい住民に知ってもらいたいということも、ミニコミ誌発行の動機の一つになっています。

   
  4.伝統の啓蒙・普及も大きな原動力
   
西澤 藤井さんは,最近,英字新聞に川越を紹介されたそうですが・・・・。
   
藤井 お恥ずかしいのですが,お持ちいたしました。
   
船橋 日本が海外の観光客を呼び寄せる力は、やはり弱いでしょう? 素材は充分にあるのだから、国内で自己満足しているだけでなく、川越を国際的にも知られるところまで持っていく必要があると思います。けれども、あまり有名になりすぎると,これもまた大変かな・・・・。
   
藤井 週末には外国人の方が心なしか多かったように思いました。ただ、その人達はバスに乗って大人数で観光に来るのではなく、個々人の観光になってきていると思うのです。観光客をマス集団で扱う時代は終わっていると思います。ひとりで歩いて路地裏に迷い込んだり、そういう自分だけの観光を通して自分を発見できるような・・・・。
   
西澤 わが国は「観光立国宣言」を唱え、海外からの来訪者を平成22(2010)年に倍増させることを目標としていますが、市長の立場から,これについてお話いただけますか。
   
船橋 川越の姉妹都市がフランスにあるのですが、そこの方が川越にこられたとき、「極東へ来たのは初めてです」とおっしゃっていました。川越どころか日本へも来たことがない状態なので、日本の実情が殆ど知られていない。フランスの地理の教科書には、明治時代の農家の写真が載っているのですが、それが日本の姿であると思われているのは本当なのです。その程度の理解しかないですから、国際的な地位の向上のためには、もっと積極的に日本を紹介して理解してもらい、交際する必要があります。
   
  5.まちづくりに最新の測量技術が貢献
   
西澤 JRの山手線に乗ると、電車のディスプレイに伊香保・日光・川越の天気予報が出るのですが、川越も観光地として認知されたかなと思い、誇らしい気持ちになります。川越には蔵造りが元々あり、それを観光客が魅力と感じてくれたのが成功要因なのでしょう。そのような魅力の素になった江戸の頃の川越の町はどんなだったか大変に興味のあるところです。江戸時代の川越の街景観をシミュレーションする研究をされている近津先生から、今の川越の魅力の源泉になっている街景観について、測量技術を駆使して作成された動画像を拝見しながらお話を伺いたいと思います。
   
近津 私が研究のテーマにしているのはデジタル写真測量という分野で、画像を使って形状などを測り、それをコンピュータ上に再現して3D表現することをやっています。人間工学・スポーツ科学など、色々なところでこういった技術が期待されています。

例えば、被災地の災害状況の把握には空中写真が使われているのですが、写真判読だけだとどうしても人間の認知能力に限界があります。空中写真に高さ情報を加えて三次元的に観察できるようにすると被災情報の検出率が上がるという研究を行っています。また、都市空間のモデリングは、政府が進めている都市再生に関連した研究ですが、ヘリコプタから撮った動画像を使って建物の三次元モデルを作ったりしています。最近は、レーザースキャナというシステムを用いて、遺跡・建造物・地形の三次元計測を迅速に、かつ、精密に行うことができるようになったので、簡単に地形モデルや都市空間モデルを作る手法なども研究しています。

これは、デジタルカメラで撮った川越の映像を三次元表現したものです。現在ある3階建ての家を2階建てにすると景観上どのような変化が起こるかを調べてみたのですが、景観には顕著な変化が認められませんでした(図−5)。
昔は町のあちこちから「時の鐘」(図−6)が見えたのですが,今は見えなくなっています。家の看板を少し変えてみたらどうなるかなど,色々とシミュレーションしてみるのですが、景観的にはそれほど変わらないのです。町並みを少し変えても歴史的な雰囲気がしないのはどうしてなのでしょうか。
これは、今日の午前中に撮った一番街ですが、ものすごい数の車が走っています(図−7)。とても安心して歩けるような状態でないばかりか、車が街の景観を損ねているのではないか気になります。そこで、電柱を取り去って、道路の舗装を変え、センターラインを取り去ってみると、がらっと雰囲気が変わりました(図−8)。空間的にも広く感じます。
車道を歩行者天国にするとよいのですが、そこで生活している人たちの車まで規制しなくてもいいと思います。例えば、世界遺産に指定されているスイスのベルンの町にも沢山の車が走っていますが道路にはセンターラインがありません。また、スイスのシュタイアンブラインという町の一般道も車が走るのですが、ここにもセンターラインがありません。危険な感じがせず、むしろ安全な雰囲気がするほどです。ツェルマットの町では、美しい町並みを作るために電気自動車しか走らせないようにしたり、各家が花を出したりしています。世界文化遺産のザンクトガレンでも、花を置いて町並みをきれいにしています。また、チューリッヒは川越と同じような人口の町で、ショッピングモールになっているのですが、このモールの一つ道をはずれた所に遊びの空間があり、ゆっくり休むことができます。

東京の一人当たりの公園の面積は3平方メートル/人で、同じような地域面積のロンドン市街に比べてかなり少ない。これは都市インフラの問題になるのですが,電線地中化や都市公園の整備は、日本がかなり遅れている。川越には1日500円で乗り放題のバスができて観光し易くなったのですが、GISなどを使って、観光スポットを上手く結んで観光をライン化し、さらには、エリアを作っていくことが大切だと思います。

   
西澤 ありがとうございました。近津先生から古い川越と今の川越,世界の観光都市の例などを挙げていただき、測量設計という視点から川越をどのようにすればよいのかというご提言をいただきました。最近、一番街の蔵造りの周辺にはマンション等、かなり場違いな構造物が目につきますが、何か対策はお考えですか。
   
馬場 平成元(1989)年に景観形成条例というのをつくりましたが、地区指定がなされておらず効力を発揮できませんでした。それではいけないということで、平成11(1999)年に一番街が伝建の指定を受けました。それを踏まえて、その周りの景観形成地区の指定をしないといけないと考えています。高さ制限も「時の鐘」の建物の高さ16メートルを超えないようにしようという意見が出され、地元で説明会を開いたり、都市景観審議会にも提出されていますので、今年8月には景観条例にもとづいて地区指定が行われる予定です。
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